小林英治建築研究所
建築家のエッセイ
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2004.11.4 (家づくりニュース2004年12月号に投稿)
家づくりの会からエッセイを頼まれ、会の建築家と話そうの掲示板に書いた「母について」の続きとして書いたものです。
何日か一緒にいて、母のまるで小説のような昔話を毎日のように聞かされた中の話を一つ。

父は今年9月で89になり、もうすっかり自分を見失い、先だって介護入院した。そんな父を母は、今まで夫婦喧嘩一つせず声一つ荒げた事の無い人だったから、御恩返しだから最後まで面倒を見たいと口癖のように言い頑張っていたが、服を着たまま水風呂に入り体が冷たくなって上がれずに居るのを、母が両手で引き摺り出そうとしたが、女の細腕では父を上げる事が出来ず近所の人に手伝ってもらい、ようやく事無きを得た。そんな事が度重なり一人では面倒見切れず、やむを得ず介護入院させたようだ。そんな父と知り合った話を以前母から聞いた事がある。

それは写真見合いで、信頼できる筋の人からの紹介だったので両親は良い話だと縁談を進め、父は戦争で満州に行っていた為写真を母の隣に立て、一度も顔を見る事無く結婚式を済ませたようだ。何故そんな時期に結婚したのか不明だが、父は終戦を迎える前に熊本に帰ってきて、まず広島の陸軍病院に入院している戦友を見舞い、泊まってゆっくりして行けと言う戦友を振り切って母の元へ向かったそうだが、その翌日広島に原爆が投下され、からがら命が助かった。だが初めて会った父は、何と婚姻を解消させてくれと言いに来たそうだ。母の姉が肺結核で亡くなっていたので、それを父方の両親が嫌い今ならまだ間に合うと断りに来て、とうとう破談にして帰ってしまったそうだ。ところが何を思ったか一週間後再び現れ、今度は「大変申し訳無い事をした」と平誤り、前言を撤回したいと言った為、「犬や猫では在るまいし、欲しいからくれ要らないから返すとは何事だ」と母の兄が烈火のごとく怒り、けんもほろろに追い返したそうだ。しかし今度も父は強く、承諾してもらうまでは帰れないと一週間通いつめ、母方の両親がとうとう根負けして晴れて夫婦となったようだ。 しかし根っからの軍人の父は、新婚旅行でも離れて歩けと言い、その事がとても寂しかったと母は言っている。

そんな母にもちょっとしたロマンスがあったようだ。丁度二十歳ぐらいの時、長崎にいる姉夫婦の所に呼ばれて、そこでデパートの店員をしながら一緒に暮らしていたようだが、その家の前に楽器店があり、そこの店員の男性が飛び切りのハンサムだった様で、母は心密かに胸をときめかしていたようだ。その内、その男性も母が好きなようだと言う事が判り母は有頂天になったようだ。偶然市役所か何処かで一緒になったことがあり、先方の男性から「お忙しいですか」と声を掛けられドキドキして「忙しいです」と答えたそうだが、以来近くに住んでいながら一言も言葉を交わした事が無いそうだ。しかし、その一言が母を燃え上がらせ、何処に行っても、早くその人のいる長崎へ戻りたいと思っていたと言っている。それだけで終わってしまった母の小さなロマンスだが、今でもハッキリと名前を覚えていて「何々さんは…」と目を輝かせて言う母の中に、良い思い出として確実に生き続けていたのだろうと思わずにはいられない。



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